校歌

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神崎小学校 校歌

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 本校の校歌は、明治43年(1910年)に制定されました。作詞は歌人・国文学者の佐佐木信綱氏、作曲は作曲家・音楽教育者の岡野貞一氏という、日本を代表する文化人によって生み出された大変貴重な校歌です。
 作詞を担当した佐佐木信綱氏は、明治5年(1872年)、現在の三重県鈴鹿市に生まれました。医家・学者の家系に育ち、幼い頃から優れた才能を発揮し、4歳で『万葉集』や『古今和歌集』の名歌を暗唱したと伝えられています。また、12歳で東京大学文学部古典科に入学し、16歳で卒業した天才歌人として知られています。歌人として数多くの短歌を残しただけでなく、国文学者としても活躍し、特に『万葉集』の研究で大きな功績を挙げました。文学博士でもあり、昭和12年(1937年)には、日本画家の横山大観氏らとともに第1回文化勲章を受章しています。また、「夏は来ぬ」や「すずめ」など、今日でも親しまれている唱歌の作詞者としても有名です。本校の校歌を作詞したのは38歳の頃でした。
 佐佐木信綱氏が本校の校歌を作詞することになった詳しい経緯は明らかになっていません。しかし、寺田本家(神崎町にある老舗の酒蔵)20代当主で本校の学務委員を務めていた寺田憲氏は、斎藤茂吉、与謝野鉄幹、伊藤左千夫、土屋文明、長塚節、牧野富太郎など、多くの文化人と交流があり、佐佐木信綱氏にも師事していたことが分かっています。そのようなご縁から、本校の校歌の作詞を依頼することができたのではないかと考えられます。
 一方、作曲を担当した岡野貞一氏は、明治11年(1878年)、現在の鳥取県鳥取市に生まれました。15歳頃にキリスト教宣教師からオルガンを学び、その後18歳で上京して東京音楽学校(現在の東京藝術大学)へ進学しました。卒業後は東京音楽学校で教壇に立ち、明治39年(1906年)に助教授、大正12年(1923年)には教授となり、多くの音楽教育者の育成に尽力しました。また、大正7年(1918年)からは文部省唱歌の作曲委員として活躍し、「故郷」「春の小川」「春が来た」「紅葉」「おぼろ月夜」など、現在でも歌い継がれている数多くの名曲を作曲しています。本校の校歌を作曲したのは32歳、東京音楽学校助教授となって4年目のことでした。この頃は次々と唱歌を発表していた時期でもあり、明治43年には「春が来た」、翌44年には「紅葉」を世に送り出しています。
 本校の校歌を岡野貞一氏が作曲することになった経緯についても詳細はわかっていません。しかし、当時の岡野氏は全国各地の校歌を数多く作曲しており、明治40年代初めには佐々木信綱氏とともに「水師営の会見」などの唱歌(軍歌)も手がけていました。このようなつながりから、本校の校歌の作曲も佐々木信綱氏の紹介によるものだった可能性があります。
 なお、佐佐木信綱氏は多くの校歌の作詞を、岡野貞一氏も全国各地の校歌の作曲を手がけていますが、それぞれ別の作曲家・作詞家との組み合わせが大半で、この二人がコンビを組んだ校歌は大変珍しいことが分かっています。現在も存続している学校で、現時点で確認できる範囲では、本校のほか、鎌倉市立御成小学校、川崎市立幸町小学校、岐阜県立武義高等学校の校歌が、佐佐木信綱氏作詞・岡野貞一氏作曲によるものです。
 このように、日本を代表する歌人・国文学者である佐佐木信綱氏と、多くの唱歌を世に送り出した作曲家・岡野貞一氏によって作られた本校の校歌は、本校の大きな誇りであり、かけがえのない宝です。これからも子どもたちとともに歌い継ぎ、大切に受け継いでいきたいと思います